vol.8 阪神タイガース優勝記念〜まだまだやれるっ!

“18年間"という時間

 18年前、皆さんは何をしてましたか? 僕は大学を(やっとこさ)出て
某音楽雑誌出版社に就職してました。もちろん、その頃は今のような音楽中心の生活で
はなく、日々、雑誌の広告を取りに駆けずり回っていました。

 そんな右も左もわからないペーペーの社会人生活を送っていた時、
どこをどう間違ったのか、阪神が優勝しちゃったんです。
それも当時"第一次黄金期"を迎えていた広岡監督率いる西武ライオンズに勝って、
日本一にまでなっちゃったんです。
あの時、僕は最後まで「阪神が優勝なんて、そんなアホな」と思っていたし、
現実に優勝し(ちゃっ)た時も「あれまぁ、ホントに優勝したんだ」程度の
感激だったように思います。もちろん、優勝決定の時、テレビの前でホロリとは涙しま
したけど、それは決して号泣なんてもんじゃなかったです。なんでだろ?と今になって
考えてみると、それは当時まだ、僕が一度も"甲子園球場"という聖地に行ったことが
なかったからなんだと思っています。
 「甲子園はえぇでぇ〜、タケさん!」—-優勝した年(85年)に仕事で
知り合ったO氏が僕にそう言ったのは、翌年のことでした。当時、彼は関西で仕事をして
いて滅多に会う機会はなかったんですが、仕事の件で電話しても
「えぇから、一度甲子園に来てみぃ」としきりに誘われていたんです。
その言葉に押されて、翌年(86年)、僕は土日を使って初めて聖地に行ったのです。
それも、羽田から飛行機に乗って……(ま、飛行機好きの僕からすれば当然と言えば
当然なんですが)。
 初めて甲子園球場に入った時、ほんとに「何て素晴らしいところなんだ!」と
感じました。空の下、土のグラウンド、心地よい浜風、ライトスタンドの阪神ファンの
面白さ……
「野球ってこういうところでやるべきなんだなぁ。よし、これから毎年1回は来るぞ!」
そう心に決めたのは言うまでもありません。
 85年に優勝した阪神は、翌86年の3位の後、いきなりぶっちぎりの最下位。
優勝監督としてもてはやされていた吉田義男監督はその年にクビ。
その後、村山実、中村勝広、藤田平と監督は変わりましたが、92年に「あわや優勝」と
いう2位になった以外は、ほとんどが5位か最下位。それでも僕は毎年1回は甲子園に
通い続けました。もちろんO氏とともに。不思議なことに、あれだけ弱かった阪神でも、
僕らが観に行った試合の勝率は5割をキープしていたんです。
O氏いわく「せやから俺らが応援に行ったらなアカンねん!」
 というわけで、僕らは懲りずに毎年6月頃には必ず甲子園のライトスタンドにいました。
ちなみにO氏はいつしか東京勤務になっていたんですが、東京から2人でわざわざ出かけ
るのが年中行事のようになっていました。で、肝心の阪神はと言うと相変わらずの
体たらく。監督は再び吉田義男、さらに99年には野村克也という、あっと驚くような
人事まで行ったにもかかわらず、です。
試合観戦の後、O氏と大阪・ミナミで酒を飲みながら
「しっかし弱いなぁ、阪神。あいつら、野球の才能、ないんとちゃうか」
と呆れ返っていました。それでも最後には必ずこう言うのです。
「でも大丈夫やで。俺ら阪神には明日という日があるんや。
 正義が勝つには時間がかかるんやからな!」
 でも、ふと振り返ると、社会人なりたてのペーペーだった僕がいつしか40才を
越えた中年になっていたのです。会社を辞め、フリーターになり、バンド活動に本腰を
入れ、そのバンドが解散し、師匠・ひろさんから仕事をもらえるようになり、
親父が亡くなり、ヘンシモに加入し、
(あろうことか)人にドラムを教えるようになり……18年間という
時間は、身の回りにそれはいろんな変化をもたらしました。
それでも阪神ファンというポジションだけは、相変わらずでした。
「コラァァ〜〜! しっかりせんかい、ボケェ〜!」
とノドも裂けよとばかりにスタンドから声を張り上げ、
「来年はどう考えても優勝やろ」と妄想とも言える話題をサカナに酒を飲み……。
いつしか世間は21世紀になっていたんです。

嬉し涙

 中日ドラゴンズ一筋だった星野仙一さんが阪神の監督になっ(てくれ)た時、
僕は正直「星野さん、早まったらアカンで」と思ったものです。
いくら"闘将"といわれた星野さんでも、落ちぶれまくった阪神がそう簡単に立て直さ
れるとはどうしても思えなかったんです。
現にその前年(01年)まで"名将"野村克也さんが監督をしても、
結局は最下位だったわけですから。こりゃ、もうダメだろう。
阪神の優勝はもう見られないな—-本気でそう思ってました。
いや、もちろん、だからと言って阪神ファンをやめるなんてことはまったく考えま
せんでしたけどね。確かに横浜ベイスターズやヤクルトスワローズが優勝して歓喜の
ビールかけをやっている様をテレビで観るたびに「羨ましい」と思ったことは事実です
(あ、ただし読売は除きます。奴らの優勝を羨ましいなんて思ったことは、
 ただの1度もありません!)。
だって阪神ファンである限り、絶対に味わえないことだと思ってたから。
特に「あわや優勝」だった92年以降、完璧なドン底まで落ちてからは、
本気でそう思うようになってました。
 それが、何と今年、優勝したんです。それも史上稀にみるブッチギリで。
9月15日に優勝が決まるまでの連休中(9/13〜15)、僕は毎日O氏の下宿に押しかけ
CS放送を観ていました。「今日決まるかも」「いや明日やろ」なんてO氏と言い合いながら
昼間からビール片手にテレビ観戦してました。
 実は僕は、もう優勝は絶対間違いない!という状況だったにもかかわらず、
まだ心のどこかで「もしかしたら、優勝できないかも」って思ってたんです。
85年の優勝の時と同じで「阪神が優勝? んなアホな」だったんです。
でもあの18年前と違うことは、僕が甲子園という場所を自分で体感してたこと
なんですね。あの素晴らしい場所で阪神の優勝が決まる……こう考えただけで、
ジ〜ンとしちゃってたんです。
18年の間に、僕の阪神に対する思い入れはものすごく深くなっていたんですね。
 9月15日。昼間の試合で広島カープにサヨナラ勝ちをし、
夜、ヤクルトの敗戦(横浜戦)が決まったと同時に歓喜の胴上げ……。
涙って、あんなに簡単に出るものなんですね。自分でも驚きました。
優勝決定と同時にたくさんの友人から僕の携帯に届いた「オメデトウ」メールに
返事を打っている時、自分の身の回りにあったこと、阪神の低迷にもめげず
毎年甲子園に通ったこと……いろんなことがいっぺんに頭の中にわき出してきて、
気がついたら泣いてました。阪神の選手が優勝のペナントを持って甲子園球場を
1周している時、当然バックには『六甲おろし』が流れていたんですが、
僕もO氏も涙が溢れて歌えませんでした。こんなこと、今までになかった。
 希望とか夢を信じ続けていると、いつかは報われるんですね。今、しみじみ思って
います。逆に言うと、それなら他のことでも、きっと報われる時が来るに違いないん
だと思うんです。ノーアウト満塁で無得点、3試合連続完封負けなんてザラ、
そして2ケタの連敗なんて当たり前だった阪神タイガースを信じ続けて18年も耐えに
耐えてこれたんだから2、3年、ダメだってどうってことないだろ?
—-今、自分にそう問いかけてます。
そして、もう1人の自分が応えています。「おうよ! まだまだイケるで、俺は!!」
2003年9月15日という日は、僕にとってそんな日になりました。

                  つづく